昭和51年07月21日 朝の御理解
御理解 第89節
「此方の道は傘一本で開くことができる。」
途中から始まる
傘一本で開く事が出来ると言うどういうことかと。昨日一昨日私の方の母の一年の式年祭を内々の先生方ばかりで、久富先生が祭主、西岡先生が副祭主で、末永先生と上野先生と四人で奉仕して頂きましたが、霊祭を終わらせて頂いた後で、久富先生が御霊神様の前で御祈念をしておる時に、沢山の茄子だけを一杯盛り上げたお供えを頂いたとこう言われる。いうならば茄子のお知らせは安心と言われますから、いわゆる御霊様としては安心の御霊、喜びの御霊として、最高のまぁ御霊様でございましょう。
それこそお互いが安心の御霊、喜びの御霊として、御霊の世界におかげを頂けるような信心を、しっかりしておらなきゃならんということです。そこでその安心というのは、どういう信心から生まれるかというと、茄子というのはイガを越えてなるという、なり口の所にイガイガがあるでしょう、あれは虫がつかないようにだったそうですね大体は。お夢の中でも一富士、二鷹、三茄子と言う様なそのう夢を頂くと大変良い夢だと。
それは一富士というのはあのう曽我兄弟の、まぁ一富士というのはやっぱそうですね
、富士の麓野で本懐を遂げたという意味らしいです。それから二鷹というのは、忠臣蔵で有名な鷹の羽の紋所というのが浅野家の紋所、いわゆる本懐を遂げたというやっぱり。それから茄子というのは、荒木又右衛門の何だったですかね、十八人斬りですかね、あぁ十人斬りですか、のあすこ伊賀越えというところで本懐を遂げたというので。
もう三大敵討ちと言われております。いうならば三つの本懐を遂げたというのですから、人間の願いというものが成就したという意味で、一富士二鷹三茄子ということを言うんだと言う事を、いつかの御理解に頂きましたね。だから茄子のお知らせはだから安心だと、紫、紫色を頂くと安心です。その紫の色を頂く茄子のおかげを頂くためには、やはり通るところを通らせて頂いて、伊賀越えイガを越えて成る、伊賀を越えて成就する。
いうならば大変な伊賀越えというのですから、大変なまぁ厳しい山を越えて、向こうに行って、成就するということでしょう。私の母の生涯というのは、もうまさしくそうだったと思うです。本当にまぁいうならば、苦労の連続であった。だんだんここで人が助かるようにならせて頂いて、いうならば信心の喜びの世界に浸りきって、私の両親の場合なんかは、まぁこれが本当のこれが極楽であろうと言う様な、物形。又は心の上にもそういうおかげを頂いた。
ですから私共がどうしてもこの安心のおかげを頂かしてもらう、傘一本ということは安心ということである。一本の傘さえ持っとればいつ曇って参りましても、降りだしましても濡れんですむ、傘一本持っておるということが安心だという意味なんです。そこでイガを越えてなるということでもです、やはり成就する事がやはり大きな成就につながらなければいけません、大きな願いを立てなければいけません。
今朝からの御祈念に、合楽教会大発展の御神願が御成就に相成りますようにという願いをさせて頂いた。その為にはどういう信心、まぁ今日私が頂いておる信心が、今日の御比礼でしょうけれども、これはまだ御比礼の序の口である。まぁだまだこれから沢山なお弟子さん達も出来て、沢山な出社も出来て、しかもそれが全国世界各国にです、いわゆる和賀心時代を創るという程しの、大きな願いを持っおる事でございますから、そういう願いが成就して行く事の為に、お互い信心をしなければいけません。
そこでなら合楽教会大発展の御神願成就という事を願うと同時に、為にはどういう信心をさせて頂いたらよいかということを思わせて頂いたら。『オ-ル太くオ-ル有り難く』と頂きました。オ-ルということは全部という意味でしょう。あぁこりゃどうでも合楽教会に御神縁を頂く程しの人が、全部オール太くオール有り難しという信心目標を持って、それがおかげになってくるということが安心への過程だと、安心のおかげを頂くということは、そういう信心が本気で行じられてからの暁安心。
神様の確信というものが生まれてくるのです。昨日の御理解三節を頂きました。一番最後のところの、上下立つ様に致すと言うところにまぁ言うなら焦点をおいて聞いて頂いた。御理解三節は、願う氏子におかげを授けとありますから、願う氏子におかげを頂かなければならん、あぁ成程神様だなと言う様な、いうなら神様をそこに感じる信心から始まります。そしてならそれこそとんとん拍子におかげおかげと言うたのであったのでは、上下立つ様にと言う事にはなって来ないのです。
こりゃもう人間の弱点です。少しばかりおかげを頂くとそのおかげにすぐ腰掛ける、ただマイホーム的なおかげで終えてしまう、又は頂いたおかげが却っておかげ落としの元になると言う事すらあるのです。そこで願う氏子におかげを授け神様を認めさせ分からせて、そこから理解申して聞かせとあるのですから、そこから御教えを頂く事によってどういうことかというと、金光教のいうならば神様の根本的な願いというのは、上下立つ様に致すというところにあるのです。いわゆる信心共栄であります。
神様と人間とが助かり合うていく、しかも共栄し合うていくという共に栄えて行くという願いが、私共が拝まして頂く金光大神のお取次ぎによって、現われて下さったところの天地金乃神様の願いなんです。だからその願いに応えまつらせて頂こうという信心が、やむにやまれぬ物になってくる、信心が分かれば分かる程お役に立ちたい立ちたいという一念が、強ようなって来る様な信心にならなければならない。願う氏子にはおかげを授け理解申して聞かせ、理解を頂かせて信心が分かってくる。
そこからです本当な信心を目指さないと、本当の信心を目指してからの苦労は必ずそれが、血になり肉になるそれこそが真の修行じゃと、昨日の昼でしたかね頂きました。どんなに自分の例えば願いが成就する事の為に、自分の個的なですね自分の助かり自分の店が繁盛すりゃええと言っ様な、そういう今難儀なところを通っておるから一生懸命修行をする、一生懸命に信心もする、けれどもこの修行はです辛い修行です。
原さんのお話しの中にありますように、このおかげば頂くならば、もうお参りせんでよかごつなるとばってんと言う様な修行です。また事実をですおかげを一つの事が成就すると、やれやれに必ずなります。それが人間のまぁ弱さであります。だから目指すところが信心であればです、いくら苦労であっても信心の苦労であるならばです、三代金光様が始めの間は有り難い有り難いじゃなかった。
始めの間は辛くて辛くてよう泣いたと言われるけれども、真の信心を目指し親様が教えて下さった信心を、貫こうとされるところに始めの間は辛かったと仰る。泣き泣き辛抱したと仰せられる。その泣き泣きの間に辛抱なさておられる内に、思う事もなくなり欲しいものもなくなりと言う様な、我情我欲のない世界に出られた。そこから有り難うて有り難うてという、御信心がお出来になられたようにです。
私共の信心の一番大事、今日の御理解で言うと、傘一本を頂くまでの過程というものがです、いよいよ私共が太くならせてもらおう、有り難くならせてもらおう、一切を有り難い有り難いで拝み抜いて行こう、一切をひとつ太くならせて頂く材料にさせてもらおう、泉尾の三宅先生のお言葉にありますように「何でもの願いに立たせてもらうと言う事です」何でもの願いと言う時に迫力を感じます。何でもかんでもの願い、どういうことであってもそれを合掌して頂きますという信心。
そこから何でもの願いが出来てくる。これは不思議な事です。昨日ある方がある商売を手広くしてある人が参ってまいりました。どうもお店の方が自分をまぁ言うならないがしろにした仕打ちがこの頃えらい目立つ、独断的である。そして今日は又もういよいよ一口言わなおれないと言った様な、もう本当に神様に対してもうお粗末、店に対してもいよいよお粗末になると言う様な事を目撃した時にです、はぁ今月の信心は大きくなる事、太くなる事と仰るけんここは太くならないかんと思うて、まぁ一生懸命。
けれどもお取次ぎだけは頂かなきゃ収まらないと言うので、それでんならあんたのその願いは今日の御理解を頂きないさいと言うのが、昨日の御理解です、いわゆる上下立つ様に致すというあの。の御理解を頂きよったげならもう段々よう本当に、辛抱させて頂いたと有り難くなったきた。もう御理解頂き終わる頃にはえらい落ち着いてから、また二度目の御理解を頂きよんなさいましたが、後からここにおいでてみえてですね、先生有り難くなると言う事は太くなる事を発心する事ですと言うたのです。
私はそりゃ本当にそうだと思うのです。その時は辛いです。もう言うならば店の大将としてですよ主人として、使用人にそげなこつでいくもんか、あげんせろこげんせろと言うてもいい様な事だけれども、人間が言うた位で聞かせるのは大した事はではないと、言う昨日のお話しでしたよね。神様のおかげを頂かなければ出来る事ではない、しかもならその事によって自分が太らせて頂くというのだから、いよいよ二十の有り難さというものが生まれて来る。
その有り難さを持ってなら又彼の事をまた願うと言う様な、まぁ言うなら気持ちが出て来たんじゃないお話を頂く内に。そして有り難くならせて頂くと言う事は、太くならせて頂く事に徹する事だと。私それと同んなじ様なお届けを昨日でした一昨日でしたか、高橋さんから聞きました。もうそれこそ普通で言うならば、まぁ血の涙の出るごたる、でなかったらそれこそこちらが反発して、ギャフンと言わせられる様な事であっても、じっとしかも夫婦で辛抱した。
その事をよう辛抱させて頂いたおかげ頂いたと思うて、もうそれこそハンドル握り握りその事を有り難いなと思いよったら、もう大体そのうあぁいう高橋さんはまぁ情の人ではないですよね理の人です。ですから人が有り難涙をこぼすなんかちゅうことは不思議位だった。ところが不思議にもう有り難涙がこぼれてこぼれてしょうがなかったっち。いうお届けをされました。いかに太くなるということに徹底して精進しようと腹を決める時です、よう辛抱しぬかせて頂いた、言わんでよかった、せんでよかったと。
例えば一日の締めくくりの中にそれを思う時にです、もうそれは有り難いものに変わってくる。ははぁ太くなる事と有り難くなる事は繋がっとる。しかも合楽ではこの事ばかりをいわば頂いておる。言うならばオール太くなるのである、オール有り難くなると言う事に焦点を皆さんが置かれるようになった時、いうなら朝の御祈念にでも参りされる方達が、ここへ焦点を置いて太くなる事の有り難さを身に付けていく時に、そういう人が増えた時に、いよいよ合楽教会大発展の願いが成就される時だということなんです。
だからせめて合楽の信者だけと言いたいけれども、全部が全部いかんにしても、せめて朝の御祈念にでもお参りして、修行でもさせて信心を目当てにしての信心修行をなさっておられる皆さんがです。オール太くなろう、オール有り難くなろうという行き方を結集する時に、初めて合楽教会の大発展、いやそれこそいよいよもう夢にも思わなかった様な、有り難い大きなおかげが約束される訳です。これに徹する事なんです。
そこに初めて実感されるとはです、成る程一切が神様の働き、それはどういう働きかというと、私を有り難とうならせて下さろうとする働き、私の心をいやが上にも太くならせて下さろうとする働きであると気づく時にです、生まれてくるのが信心の喜び。そこにあるものは信心の安心傘一本。だから例えばじっと辛抱する時には、イガイガジガジガでありましょうけれども、そのイガイガジガジガを乗り越えて、初めて茄子がなるように、いわゆる事が成就しますように。
おかげが頂けれるいわば世界に出るということは、そういうことだと。昨日十二時ちょっと前に出て来ました。そしたら珍しく菊栄会の方が昨日はあのう共励殿で共励やってました。もうえらい熱心にそのう研修があっておりましたから、私もつい吊り込まれて、私大体私は菊栄会には顔は出さんのです。私が入るとあまり好かんごたる感じがするけん、私は敬遠しとるです。ところが昨日はあまりに熱心に研修しよりなさるから、思わず吊り込まれるようにして入りました。
昨日の朝の御理解を中心にして、いよいよ信心の研修でした。そこで私が皆さんが頂き終わった後に、最後に上下立つ様に致すということ、それには先ず私共がままになるということが願う氏子におかげを授けてある。次にはいわば神様のおかげが成就しますようにと、言った様な信心。いうならいよいよ信心が分からせて頂くという信心。願い通りの信心を頂いた事がほんなこっちゃない、願ったことか右になり左になりと言った様な時、いうなら血の涙が出る様な所をです。
いわゆるそのジガジガの所を通り抜けさせて頂くんだけれども、もう其の時は目当ては信心ですから、苦労のごたるけれどもその苦労が血になり、身になっていくのを感じられるから有り難い。そしていうならば右と願えば左となり、左と願って右となるというような時には氏子の願いは成就しておらんけれども、神様の願いは成就しておる時という。神様が先にままになって下さるというおかげを頂いて。
後に私共がそれこそ願いどころか、願いも掛けない夢にも思わなかった様な、おかげの展開になって来ると言う様な時にです、初めて上下立つ様になるという、その半分が出来たのだと。神様がままになられるというのはね、どういうことかというとね、私共が安心のおかげを目指した時にです、信心のぎりぎの目指しは安心だと真の信心だと。真の信心をすりゃ真の安心が頂かれる。それを目指しての信心になる時にどういう苦労も、それは尊い有り難い修行として、神様が受けて下さる証拠にです。
血肉になっていきよるのが分かってくる、願えば成就しないけれども、信心の有り難さが分かってくる、いうならば子供を学校にやった高校、そして大学も卒業させた、そして就職のおかげも頂いた時に親はやれやれ安心でしょう、それに嫁御でも持たせてやったら、いよいよ親としては安心です。だから問題は親の安心というのは一本立ち出来る様になった時に、親が安心するのです。
親がままになるというのはです、そのなら親神様がままになんなさるとは、私共がもうあの氏子はどこにやっとっても傘一本頂いた、いうならば安心を目指しての信心であるから、もうどこに出しても心配はいらんと言われる時に神の助かりがあるのです。但しこれは半分です。そこで後の半分は、神様が上下立つ様に致すという、立ち行くところの神様の働きというものは、どういうことをもってそのう働きになるか。神様が安心して下さるかと言う事を私は皆さんに問いました。
高橋さんがそれに答えてこう言われました。言葉は少し違いましょうけれども、「信心の真をいよいよ現しいよいよ合楽示現活動に、参画させて下さいという願いに燃える事だ」と言うのです。大学も卒業させてもろうた就職のおかげも頂いた、そこに親の助かり親の安心がある様に、私共の信心が伊賀を越えてですそこに力を得た、いうなら神様の絶対を信じられるようになってきた時に、神様がもうあの氏子は大丈夫と、いうなら半分は神様がままになんなさった。
だからなら一生懸命今度はねその子供達がです。よい就職をして沢山給料を取るようになってから、親にさぁ温泉にでも行きなさい、さぁお芝居にも行きなさいということになってくる時に、いよいよ親の親孝行の子供を持った、いわゆる冥利に尽きる時でありますようにです、私共の信心が上下立つ様になるという信心にはです、私共がオール有り難くならせてもらおう、オール太くならせて頂くところの、一心発起をさせて頂く時に、もう既に神様はもうこの氏子は安心だと思われるから。
それこそ今まで有り難涙なんて零れたことなんてなかったのに、御理解を聞くだけで有り難うなったり、自動車を運転していきながら涙がこぼれて来たと言う様な、有り難さはもうその人達の有り難さではない、神様の有り難さが反映してくるのである。そしてその有り難い心を持ってです、お役に立ちたい立ちたいの一念、合楽示現活動に真実参画させて頂かなければ、いうなら実意をもって丁寧をもって愛の心を持って、人に語り伝えていかなければおられない信心が、生まれてくる時にです。
いよいよ神様はもうそれこそ、手放しで喜んで下さる時です。だから合楽の方達の場合は、皆んなそこのおかげが頂けれる教導を、日々頂いておるのですから、例えば今日の御理解を頂く、今日の御理解を境にです、いよいよ持って太くならせて頂こう、そこには必ず有り難いというものが整うてくる、オール有り難い有り難いで受けて行く人達の、いうなら集団がです、いよいよ合楽教会大発展の御神願が成就する事になり、合楽教会大発展の成就ということは。
教団の発展の成就に繋がり、大きくいえば世界にいよいよ和賀心時代を広げていくところの、それに繋がると言う程しの大変なおかげになって来る訳です。だから太くなるということは、今月だけの焦点じゃなくて、私共信心頂く者のもうこれはいつもがです、これに徹するという腹を決める事。それでも中々これに持ち応えられない時はです、走ってこう出て来て実は今日はこうこうでしてと、もう本当に言わにゃおれませんでしたけれども、こうでしたあぁでしたとお取り次ぎ願うがよい。
彼にあぁ言わんでよかった、そして帰りには今度は有り難涙がこぼれるようになるでしょう、太くなるということは神様がその様に喜んで下さる事なんです。何故って太くならなきゃおかげを太くしてやる事が出来んのだからです。小さい受けもので大きなおかげを下さいって言ったって理が合わん、もういよいよ太くなる、しかもその太くなるという精進をするということは、有り難くなるということに必ず繋がるということ。
ですからひとつオール有り難く、オール太くならせて頂く信心を目指さして頂いて、今信心を目当てにしての難儀であるならば、今こそ伊賀を越えておる時であると分からにゃいかん。いや今自分は一生懸命修行しよるけども、只この事だけが自分の小さい願いが成就すりゃよいと言うて、なら一生懸命朝の信行にでも通うて来ておるのは思いを変えて私は信心になる、いよいよ太くなる事の為にいよいよ真の信心を分かる事の為に。いよいよ有り難くなる事の為の、信心に切り替えなければばからしい事になるです。
そしていよいよお役に立ちたいという一念を燃やしていくということです。そういうとところから確信そして生まれてくる喜び安心、それを傘一本とここでは表現されておられるのだと思うのです。その傘一本が頂けてくる時に、ここにはもう沢山の傘が見え沢山の傘が並べてあるところを、いつか頂いた事がありますがです。
自分にそういう安心のおかげを頂けなくても、お取り次ぎを頂いて安心するというのは、ここからその安心の傘を借って行っているようなもんです。それが借りて行くのではない、自分自身がそれを頂く事の為に、本気で信心をさせて貰わなければならん、いよいよ傘一本で道が開ける、素晴らしい道が開けるその願いに立つ、いうなら願いに燃える、神様に安心して貰える神様に喜んで貰える、そういう信心が出来た時に、いよいよ上下立つ様に致すということにまなってくると思うのです。
思うのですじゃないだと確信します。どうぞいよいよ太くなる事の修行を、本気で一つ修行させてもらい、そこで有り難くなれないということは、有り難くなれないと言う事は決してない、神様のそういう願いに応えて太くなるという事とだけでも、それを一心発起しただけでも、有り難涙がこぼれてくるというのですから、その有り難いを持って、いよいよその有り難いを広げて行くということがです、いうならばいよいよ光輪の世界を広げて行くということになると思うのです。
どうぞ。